現代にも繋がる、欧陽脩メソッド!!
欧陽脩<おうよう しゅう>(1007~1072)
字(あざな)は永叔で、号は酔翁、六一居士とも言います。
中国の宋時代の政治家(参知政事(副総理)まで昇進)、詩人でもあり、文学者、歴史学者でもあります。
欧陽修と表記されることもあります。
*詩や詞の創作はもちろんのこと、
古文(散文)の復興を実現→唐宋八大家の1人(漢文の問題で出てくる)
歴史書(《五代史記》(新五代史)、《新唐書》)を執筆
〇中国人は彼の詩文を暗誦している→教科書で取り上げられる偉人。
〈彼が切り開いた新たな分野〉
○金石学《集古録跋尾》→現在の考古学
○詩話《六一詩話》→中国で初めての詩の評論書
○随筆《帰田録》→中国の随筆のはしり
○儒学《詩本義》、《易童子問》→朱子学につながる道を切り開いた。
現代を生きる我々から見ても、欧陽脩の提案は、実に有益です。
私は、「欧陽脩メソッド」と名付けています。
欧陽脩メソッド、まずはその一つである三上。
【発想は三上】
余平生所作文章、多在三上。乃馬上枕上厠上也。蓋惟此尤可以屬思爾。(『帰田録』巻2)
余、平生、作る所の文章、多くは三上に在り。乃ち馬上・枕上・厠上なり。蓋し惟だ此れ尤も以て思いを属ぬ可きのみ。
(私はいつも文章を作成するとき、その多くは「三上」にあります。つまり「馬の上」、「枕の上」、「厠(かわや)の上」です。思うに、ただこれらは最も思いをめぐらすことができるのです)
◦馬上 … 馬に乗っているとき。
◦枕上 … 横になっているとき。
◦厠上 … 便所に入っているとき。
『文章を書くヒント』外山滋比古 (PHP文庫)
〝三上〟
アルキメデスは入浴したときに大発見をして〝ユリーカ〃(われ発見せり)と叫び、飛び出したという伝説がある。霊感や名案はいつどこであらわれるかわからない。
そうはいうものの、どこもまったく同じというわけではあるまい、と場所にこだわりたくなるのは人情であろう。文章を書こうとしていてよい考えの浮かぶのは
馬上
枕上
厠上
だと言ったのは中国の昔、欧陽修である。古来、三上として知られている。枕上は寝ているとき、厠上はトイレで用便中ということである。
馬上というのはいまならさしずめ通勤の乗りものの中といったところか。満員電車の中で文案を練るのは現代の風雅である。ただマイカーの運転中にそのまねをしてはたいへんだ。
枕上、厠上はこのまま現在でもあてはまる。枕もとに紙片を用意している人はいても、トイレにメモ紙を用意しているのはすくない。
三上に共通しているのは、ほかにすることがなく体がゆるやかに拘束されている状態である。活動的なときは、ものを考えるのに適していないようだ。
風呂の湯舟につかっているときに書きたいことが頭に浮かんでくるという女流エッセイストがいる。実際に入浴中に原稿を書くそうだ。さしずめアルキメデス風で、〝湯〟上というべきか?
【勉強は三多】
宋の陳師道『後山詩話』に以下のような記載があります。
永叔謂為文有三多:看多、做多、商量多也。
欧陽脩(永叔)が言いました。「文章に書くに当たって『三多』というものがある。看多、看多、商量多です」と)
・看多(かんた):たくさん読むこと。
・做多(さた):たくさん書くこと。
・商量多(しょうりょうた):たくさん推敲すること。
たくさん読んで、たくさん書いて、たくさん推敲する、これは現代にも当てはまる文章作成法でしょう。
「三上」、「三多」を提唱した欧陽脩は、どのようにして学問を身に着けたのでしょうか?
【欧母画荻】(おうぼかくてき)
欧陽脩の学問の習得過程を考える前に、まず欧陽脩が生まれた頃の彼の家の情況は貧しいものでした。
『宋史』巻三百十九、歐陽脩伝では、その冒頭に次の如く言います。
歐陽脩、字永叔、廬陵人。四歳而孤。母鄭、守節自誓、親誨之學。家貧、至以荻畫地學書。
歐陽脩、字は永叔、廬陵の人なり。四歳にして孤なり。母の鄭は、節を守ること自ら誓ひ、親ら之に学を誨ふ。家貧しく、荻を以て、地に画き書を学ぶに至る。
父親である欧陽観が三歳(数え年で四歳)で亡くなったこともあり欧陽脩の家は貧しく、紙や筆を買うことができませんでした。
そこで、母親は荻の茎を手折り自らそれを用いて地面に字を書いて欧陽脩に識字の手ほどきをしました。
さらに、欧陽脩の「事迹」には、次のように言っています。
先公四歳而孤、家貧無資、太夫人以荻畫地、教以書字、多誦古人篇章、使学為詩。
先公四歳にして孤、家貧しく資くる無し、太夫人は荻を以て地を畫き、教ふるに以て字を書し、多く古人の篇章を誦し、詩を為るを学ばしむ。
『宋史』の記述と同じく荻の茎を手折り、地面に文字を書くという識字教育について記載した後に、母親は欧陽脩に古人の篇章を暗誦させ、詩を作ることを学ばせたと書いてあります。
母親が幼い欧陽脩に行った、こうした教育は、彼に進むべき学問の方向付け、すなわち学ぶべき学問の軌道に誘導したと言うこともできます。
後世「欧母画荻」の故事となっている幼少期の母の教育は欧陽脩の生涯の学問に対して大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。
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